*曲水の宴
きょくすい or ごくすい 庭園を流れる鑓水に杯を流し、流れのほとりに座る参加者は杯が自分の前を通り過ぎる迄に和歌を読むという行事です。 主な開催地 太宰府天満宮(福岡) 上賀茂神社(京都) 毛越寺(岩手) 各地方で開催されています。一度足をお運びになってはいかがでしょう。 |
*名古屋の徳川美術館で毎年2月〜4月にかけて「尾張徳川家のひな祭り」という展覧会があります。 興味深い展示です。おすすめします。 |
ひな祭りの源流のひとつは、中国渡来の「上巳(じょうし)」の節句です。
上巳とは三月上旬の巳(み)の日のことで、人々は水辺に出て人形(「ひとかた」または「かたしろ」とも言います)に身の穢れを移して流すという風習(流し雛の原形)がありました。
日本では701年から三月三日に固定して宮中では水にちなんで「曲水の宴*」などの催しがありました。(現在、太宰府天満宮や上賀茂神社など各地で行われていますが、近代以降に復元されたもので、日付も三月三日に固定されている訳ではありません。)
【参考】中国での「上巳」ならびに「曲水の飲(宴はでない)」についての記述が、日本に伝わる少し前の時代に成立したと思われる「荊楚歳時記」にあります。他の中国の文献によれば「流杯曲水の飲」が漢の時代にはあったとの記述が残っているようですが、その記述自体の時代が下るため、定かではありません。( 参考文献:東洋文庫324「荊楚歳時記」)
紫式部や清少納言が活躍した平安中期の頃には、宮中や公家の家々では「ひいな」の遊びが盛んでした。一種のおままごとのようなもので、これがもう一つの源流となります。
それがいつしか「お祓いのための人形」と「ひいな遊びの人形」とが同一視されるようになっていきます。
室町時代になると、豪華に仕立てた男女一対の人形を贈答する風習が起こり、三月三日の夜は枕元において、翌日に神社でお祓いをお願いしてしまい込み、また翌年の三月に取り出すという習慣が定着しました。
雛人形の段飾りが起こったのは、江戸時代も中頃だといわれますが、これは主として武家*や町人社会での風習で、宮中や公家ではずっと「ひな人形」と言えば男女一対の人形だったようです。
江戸時代後期頃になると、お祓いだのわざわいを防ぐなどという節句の意義は薄れてきて、女の子が幸せになるようにとの意味が中心になり、福をもたらすもの、縁起がいいものと飾り立てました。
江戸時代の流行の推移については「ひな人形の種類2」をご参照下さい。
2008年06月27日加筆訂正。
2010年03月05日理解しやすいよう一部文言を追加修正。