入手方法
ここであげた種類のお雛様は現在でも売られています。 一つのジャンルになっているものもありますし、復刻版として特別に企画販売されるものもあります。 ただ、有職雛や古今雛など手に入れやすいものを除き、特定の人形師さんだけが手がける場合や、上記のように特別の企画というケースもありますので、地域や時期によっては入手が難しいかもしれません。 |
復刻版享保雛
平安天鳳の復刻版享保雛は、現在、弊社直営店の碧南人形本店にて展示・販売されています。 |
天鳳堂は人形師・平安天鳳作
手作り雛人形の製造元です
室町時代には基本的な雛の形はできたのですが、まだ形代(かたしろ)の名残が強く、ひな人形の種類(1)でも言及した立雛のように、江戸初期まではこの形が残ります。
様相が変わり始めるのは、徳川幕府の基礎が固まり、社会も安定しはじめた、第三代将軍家光の時代、寛永(1624-1643)ごろからのようです。
この頃現れた、「寛永雛」は、男女の内裏雛のみの小型の飾りでした。しかしこれが現在まで至るひな人形のメインストリームの最上流となります。
徳川綱吉の時代、元禄(1688-1703)に入ると庶民文化が花開きます。それとともに雛人形の進化に加速が加わり始めます。このころの「元禄雛」では衣裳に十二単が取り入れられたことからも流れの方向がわかると思います。
ところで、日本の物作りというのは一度どこかで大型化の途をたどるようで、雛人形もこの例に漏れません。
徳川吉宗の「享保の改革」で有名な享保年間(1716-1735)には「享保雛」という大型のひな飾りが流行し、一般の町人家庭などでも飾られたようです。
しかし次第に大きさの競争がエスカレートしてきたことなどから、亨保六年(1721)幕府によって24cm以上の雛の製造や販売が禁止されました。
さて、一度何か規制や制限ができると、その中で技術を磨いていくというのも日本の職人文化の特徴のようです。
享保の禁止令により、エネルギーのベクトルは「小型化」「精密化」に向かいます。「芥子雛」という10センチ以下の精巧なミニチュア人形の流行となります。ここでさらに技術が蓄積していくわけです。
その後江戸時代後期からは「付加価値・差別化(意味付け)の時代」になります。そして派生的に「原点回帰」「本物志向」といった傾向も見せます。公家社会で流行した、有職の作法に従った衣裳の「有職雛」と、それを庶民向けにアレンジした「古今雛」という、現代の直系にあたる形が出来上がりました。
その頃、京都の人形師、雛屋次郎左右衛門が宝暦十一年(1761)に江戸で出店して売り出した所謂「次郎左右衛門雛」も「付加価値・差別化」の例といえます。従来の顔と異なるまん丸い顔が人気を集めたのです。
ここまでは親王雛で、男女一対の人形だけの飾りという形は大きく崩れていません。
江戸も後期になると次第に節句の原義が薄れ、ひな人形は女の子の幸せを願う縁起物という意味合いが強くなっていきます。意味の変化は、その意味に沿った方向に物事を進化させ、場合によっては、その進化が意味の変化をさらに強化させていくことになります。
以後、「女の子の幸せ」あるいは「縁起物」という記号 〜 例えば官女、囃子、嫁入り道具など 〜 が加わる事により、段飾りの発達が始まることになります。
文責:Webmaster